闘争でもなく、逃走でもなく。

闘争でもなく、逃走でもなく。


戦争、テロ、など。自分の生活とは無関係と思ってしまうが自分に関わっている事など。
今こうして何も出来ない、考えることへの問い。

戦争、テロなど個人ではどうする事も出来ない事柄をどうすればよいのか少なからず考えてしまう、それは現在の自分の認識の限界を超える行為、それは超越論的にならざるを得ない?
例えば、戦争を無くす、テロを無くすなどと考えること。

超越論の意味がイマイチわからなかったので、検索。

カントおよび新カント派の批判主義の立場。認識を事実の生起からではなく,それが可能となる権利、根拠から問題とする。

自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である。

カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。
 例:詰め碁や詰め将棋では、実戦でならば解けないような問題が解ける。それは詰むということがわかっているからだ。サイバネティックス創始者ウィーナーは、自ら参加したマンハッタン・プロジェクトで原爆を作ったあと、厳重な情報管理をしたという。それは原爆の作り方を秘密にすることではない。原爆を作ったということを秘密にすることだ。作れるということがわかれば、ドイツでも日本でもすぐにできてしまうからだ。いわば、原爆の作り方が構成的理念だとしたら、原爆を必ず作れるという考えが統整的理念である。
 ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。
(第一回 長池講義 講義録 2007/11/7 柄谷行人


私は、現時点で戦争やテロが起こっている事を知っている。(認識している)
そして実は、原理的に戦争やテロがなくなる方法も知っている。あらゆる国で出来るかどうかを別にして武器、戦力の放棄。限りなく不可能に近くても。(それは認識の限界を認識しているので超越論的)
ようは、超越論的に戦争、テロをなくなる方法を説明できる。
そう考えていくと不思議とあの超越論的に響く憲法が接近する。9条。


憲法9条
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

そもそも憲法とは何か、近代憲法(日本国憲法)の前提となる立憲主義という考え方に沿うなら、軍隊 警察 税務署 貨幣鋳造権という巨大な力を暴走させないために国民が国家権力に対してのある種の縛りを加えるもの。
歴史的背景を考えるなら当然と言えるが今回調べるまで全然知らなかった。


この国には幸か不幸か、もうすでに戦力、軍隊を放棄した憲法9条が書き込まれている事に驚く。
超越論的な理念がすでに憲法に書き込まれてしまっている。この経済規模、人口においてそれを、体現している国は、他に存在しない。歴史の不可思議と言うか、アメリカが書き込んだものに、アメリカが徐々に修正を求めている。というより日本政府自ら憲法の足枷を外そうとしている。

(日本国憲法は、日本人が書いたものではなく、アメリカが書いたものだ、押し付けられたと言うが、日本国民にとってこの憲法以上若しくは同等のものは、日本人には書けなかった、それは、天皇制の議論などをみれば歴史が証明していると思う。さらに言えば70年を経て書き換えようとしている、自民党憲法改正草案を見れば一目瞭然)


この憲法が書き込まれた背景には、第二次世界大戦における連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数の 5000万〜8000万人の屍と共に、連合国、日本双方に戦争は、もうやめようと深く思う意思が感じ取れる。世界が疲弊していた、平和を求めていた。敗戦国であるこの国で不可能に近いが決して不可能とも言えない世界的な理念が書き込まれた。


この憲法は逆説的に、人間の残虐性の表れと読む事も出来るのではないか。
永久にこれを放棄する。ここまで言わせるほどの人類の残虐性の残滓。アウシュビッツヒロシマナガサキ、この憲法の理念が書き込まれるに当たって歴史上どれほどの血が流れたか?戦争の残虐性を目の当たりにしてきた人類の、叫びにも近い願い。

反対に限定的な平和を享受している私たちにとって、寒々しいほど空虚に響く憲法とも言えなくもない。どこか大人が子供に仲良くしなさい、暴力はいけません。と上から目線で諭しているかのようだ、日常的に暴力があることは確かだ、しかしその諭しは間違っていたのだろうか。それは圧倒的な正論で、戦勝国アメリカが、 上から目線で圧倒的な正論を子供を諭すように悠々とかきこんでしまった、敗戦国日本に対して。それは、数々の争いを経て産まれた、国連憲章の平和主義を徹底した形で人類に共有できるであろう理念だったはず。

政府の唱える積極的平和主義という考えは、この理念の逆を行くこと、今の憲法では内閣がどんな憲法解釈をしようとも、集団的自衛権の行使は違憲。だから憲法改正を政府が謳い上げることになる。


70年間この憲法で育ってきてしまった、理想や理念の徹底こそいま、そして未来に求められているのではないか?綺麗事言うなとか、偽善的すぎるとか、虫が良すぎるとかなどの反論もあるが、歴史上人類が侵してきた残虐性の前で彼らは発言していない、普通に考えれば戦争の放棄を明記した9条などありえない、しかしそのありえないものを憲法に書かざる得ないほどの悲劇を人類は体験した、そう考える要素は少なからずあったはずだ、それ改正ならざる改悪する事は、戦争で死んで行った人々や人類の叡智としての憲法を無にするに等しいのではないか。


人類の残虐性ばかりフォーカスして行けば、人は正気を失う。帰還兵のPTSDの問題、アフガニスタンイラクから帰還してきた自衛隊員の自殺者の多さなどに、過酷な戦地での状況が伺える。
日常的に空爆、戦闘などが行われる地域でテロリストが多く産まれる背景にもこの残虐性があるように思う。


この憲法が孕んでいる人類の残虐性の前でエゴイズムに溺れることは果たして綺麗なことなのか?


時代と共に憲法が古くなっているのも確かだ、憲法改正は良いが改悪が許されるものではない。どちらにせよ最後は国民投票で決まる。自分としては、国民投票して自分たちの憲法を自ら選んだという経験は必要な気がする。が自民党憲法草案みて笑ったよ、酷すぎる。前文だけ読んだけど端的に言ってダサすぎる。この草案をドヤ顔で出した感性驚く、、、誰か止めなかったのか。

この草案ができるまで、そして日本国憲法が制定されて70年間もあった筈、現行憲法下で戦後の困難を乗り越え名も知れず経済発展を支えたを人々がいた筈、ノーベル受賞者を多数輩出してきた筈、音楽、文学、映画、藝術の分野で世界的に活躍している人を多数輩出してきた筈、表現の自由の下数々の表現を贈与し社会を豊かにしてきた筈、70年もあった、70年、その結果がこの草案に織り込まれていると思うと怖くなる。
これは善悪を超えている多少のリテラシーがあればどちらの憲法の理念が優れているかわかる筈、今後のため前文だけでも読んでいた方が良い。
https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

今回悲惨なテロが発端で戦争の事など色々考えてみて、最終的に9条に行き着いた、戦争の事を考えるのは憂鬱だ、どうしたって戦争すれば不条理な事が起こる。その不条理さを考えることは気分の良いものじゃないけど、その感情を先回りするように憲法の前文に以下のように書き込まれていた。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

憲法の全文の意味など今まで考えたこと無かったが、その言葉に不思議と出会い、救われ、その理念の理解が深まった。
こうやって考えるのが今のところ一番しっくりくるし、多少の静謐の感をもたらしてくれる。


偽善だと言い。すべては決まっているのだから、どーにもならんと露悪的に振る舞い、政治からは顔をそむけるふりをしながら『彼ら』が演じてしまう悪質の政治的役割をするよりマシだ。

たんにそれらを、否定するだけでは何にもならない。結果的に、それらの現実性を承認するほかなくなり、そのあげく、それを越えようとする理念をシニカルに嘲笑するにいたるだけである。それがポストモダニズムにほかならない。柄谷行人「世界史の構造」

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰憂国呆談』)


何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中ツイート)



戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)