佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』

2010年に発売された本で2回目を読んでる。
何度も読める本は良い本だ、新たな発見もある。

この本は、まだ産まれていない「何かを」作る人たちに向けられた本。

革命と呼ばれる大きな物語を軸に、「続きの始まりの終わりをまた続ける」ために書かれた本。

この本で語られる「文学」とは広い意味がある。
それは、人間が産み出し行動しうる、所作、思考、イメージ、藝術に関わることや、法解釈、信仰解釈など、広範囲に及ぶ。


そもそも「文学」とは「聖典を読み、かつ書く技術」のことです。いまリテラシーという言葉が流布していて、それは一般的に読みかつ書く技術のことを意味すると言われている。しかしもともと「文学」こそがそういう意味だったのです。だから完全に重複している。どころか、リテラシーという用語からは 「聖典を読み書く技術」という意味に含まれる絶対的な政治性・規範性がぬぐい去られてしまっています。初期キリスト教旧約聖書新約聖書の文献学的な取 扱いやそのテクストたちは何と呼ばれているか? キリスト教「文学」と呼ばれています。まさに聖典を、絶対的に政治的で、詩的で、芸術的な作法のもとに読み、かつ書く技術。これを称して「文学」というわけです。
(『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号)
http://www.k-hosaka.com/henshu/yasen.html


「文学」は本を、読み、読み変え、書き、書き変える。そのことに留まらず、見たり聴いたりしたものを読み変え、書き変えることも含み、文学による教育、躾として、あるいは共同体を維持するため経済的な人間の行動の読み変え、書き変えることも含む。
それは、人間が意識的に又は無意識的に普段あたりまえにやっている事、その延長線上に「文学」による革命が示される。ルジャンドルの「テクストは文章であることを必要としない」という言葉を引き、藝術家が表現することや、労働者が労働すること、アフリカの色とりどりに飾られた黒人のダンスもテクスト、文学とも言い得る。



 テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変え、――そしておそらくは語り、歌い、踊ること。これが革命の根源であるとすれば、どういうことになるか。どうしてもこうなります――文学こそが革命の根源である、と。
佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』河出書房新社,2010年,p.80)

革命と言うと、どこか暴力的で現実から遊離したものを想像してしまうが、作者は暴力の革命を否定する。

 念を押しておきます。暴力革命は革命の数あるヴァージョンの一つにすぎません。書き歌い踊り描く、本来は紛うことなく政治的であり芸術的でもあるさまざ まな技芸の果実――これを総称してルジャンドルは「テクスト」と呼ぶわけですが――によって、太古から人は自らを統治してきたのです。ところが、解釈者革 命以来、この「テクスト」の意味合いが縮減されていき、「情報」とその運搬機としての「書類」や「データベース」だけが規範や政治にかかわるのだという、 実は歴史的地理的に限定されたものにすぎない観念が出現します。その観念は植民地主義によって世界に輸出された。それから規範や政治は「情報化」されてし まった。だからこそ、逆にそれへの抵抗もさまざまな可能性を縮減されて、単なる「暴力」の噴出でしかなくなったわけです。こうして情報と暴力の二項対立に われわれは閉じ込められることになった。革命といえば暴力革命しか意味しなくなったのは、こうした「統治の情報化」の作用にすぎません。むろん、統治にお ける「テクスト」の政治的革命に、まったく力の発露がないとは言えませんよ。時には暴力的な何かがそこに含まれることは明らかでしょう。しかし、暴力革命 が「すべて」だというのは、歴史的に見ても完全に視野狭窄です。暴力こそがラディカル? それは「すべては情報だ」と言うことが新しくラディカルだと思い 込むくらいに、うんざりするほど退屈なことなのです。
(『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号)



情報が世界を席巻したかに見える現代、一つの情報がリレーのように伝えることを強要する。
夥しい情報を浴び相対化された結果、産み落とされた閉塞感、ニヒリズム
システム化、アーキテクチャーを介して行われる、管理社会、グローバリズム

それは、果たして今に始まったことなのだろうか?それに抗する術はあるのか?


以下、精神分析斎藤環氏の書評。この本の良い道標になります。

前作にひきつづき、本書の中核に据えられるのは、ドグマ人類学を提唱するピエール・ルジャンドルの理論、そのなかでも中心的な位置を占める概念の一つ「中世解釈者革命」だ。
それは簡単に言えば、6世紀に東ローマ帝国で編纂(へんさん)された『ローマ法大全』全50巻が11世紀末に発見され、それが精密に書き換えられて12世紀における教会法の成立に至る過程を指す。かくして教会が成立し、それは近代国家(および官僚制)の原型をもたらした。
 このときローマ法は翻訳され解釈され索引を付けられ、徹底的に「情報化」された。情報化された統治システムは異物としての「暴力」を括(くく)り出す。そして「情報」か「暴力」かという二者択一の残余として「主権」がもたらされた。つまりこの時点で、近代世界は「初期設定」されたのだ。これを「革命」と呼ばずして何と呼ぶか。
 「すべてが情報である」という「古くさ」い発想もここに由来する。それゆえか「革命」に対する著者の態度は両義的だ。それはしばしば暴力革命として、夥(おびただ)しい惨事をもたらした。しかし、と彼は続ける。読むことと書くこと、それ自体が革命であるということを知らしめたのも、この「革命」ではなかったか。だから彼はくり返す。革命は文学からしか起こらない、と。
 かくして偉大な「文学」の担い手として召喚されるのは、マルティン・ルターでありムハンマドであり、ニーチェでありドストエフスキーだ。そのかたわらにフロイト、そしてラカンの名がそえられる。文学の肯定が精神分析とともになされることはまったく正しい。情報ならぬ隠喩(いんゆ)と無意識のつづれ織りこそが、文学でありテクストなのだから。
いまや著者が批判する「マネージメント原理主義」、私の言葉で言えば「情報幻想」が覆い尽くしたこの世界では、「歴史の終わり」が、「文学の終わり」が語られる。そんな末人(ニーチェ)気取りの人々に、「情報それ自体が堕落なのだ」(ドゥルーズ)という叫びはどこまで届くだろうか。いや、そんなことは知ったことではない。少なくとも「何も終わらない。何も」という著者の言葉が信じられる限り、まだ希望はあるのだから。
(「すべてが情報」疑う 躍動する文体の挑発 。斎藤環)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071704452.html



〜は終わったと言う言説を疑う事、まだ体験もしていないのに勝手に終わらしてくれるなと。

現実に溢れて情報に縋った、現状追認するだけの、言説、思想には、飽きた。
TVや新聞の解説に毛が生えた程度の言説、思想を売りさばく、知識人、専門家、企業。

面白くないね、その程度なら、ウィキペディアで検索して自分で考えるよ。
社会問題や世界情勢、情報をかき集めてみたものの現状追認するだけだ。
(今まで散々やってきて理解したよ。)

例えばの話、お互い戦争している国があって情報を集め合うことは大事なことだろう、しかし、いくら情報を集めたところで、お互いが戦争している事は変わらない。和平に向かうには、読み、読み変え、書き、書き変えられたものを、何度も作り直して、お互いが同意しなければならない。戦争を起こさない為にも情報は必要と言う声も聞こえてくるが、その戦争、争いは、もう至る所で始まっているのではないか?
何かの終わりでも始まりでもなく、未だ現在進行形の何かの最中と考えることで「文学」に内在している物語を快復させる事は可能だ。



「すべて」が情報である、だなんて、もう八〇〇年も延々やっているわけですね。それがみんな新しいと思っているわけでしょう。滑稽です。もうデータベースなんてうんざりなんですよ。そんなもの面白くも何ともない。八〇〇年前の革命に縋りつづけようだなんて、一体反動なのはどちらなのか。ここから何も変化はなく、ここから脱出する術はない、と。そんなことは無い。ありえない。創り出したのが人間なら、われわれ人間はそこから抜け出すことだって出来るはずだ。必ず、必ずね。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』p159)

この本を読んで、今まで「すべて」が情報である、と言う言説に、どれほど妄信的、盲目になっていたのか気付かされた。大切な事は、情報自体でなく、それが指し示すものが、先行して存在している事。さらに言えば、存在していないのであれば、読み変え、書き変える事によって、新たに創り出すことが可能と言うこと。
今までもそうしてきたし、これからもそうして行くだろうと当たり前のことを当たり前として思えたことだ。

印象として情報は、損得の次元を出ない。興味のあることしか受け取らなし、受け付けない。「すべて」が情報である、と言い、その舌の根の乾かぬうちに情報端末にアクセスすることの滑稽さ。便利、快適、であるが、もう飽きた。それは、すでに達成されている。


そういえばヒドイ書評があったな、文芸批評家の福嶋亮大氏の書評。
「有名人」がたくさん召喚されているのだけど、頭の弱い私にはまったくわけがわからなかった。なにより、ちゃんと読んでいない。以下引用。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html


おそらく本書は、文壇には好意的に受け入れられるだろう。「文学の勝利」を高らかに謳い上げているのだから。そして、情報の世界に背を向けていいと言っているのだから。とはいえ、その「勝利宣言」は20世紀に積み重ねられてきたさまざまな文学的実験の背景を、ことごとく無視したところで述べられている。むろん、佐々木氏一人が「反動」に走るのは一向に構わないし、読者がその語り口に耽溺するのも自由だ。だが、作家や編集者、批評家は、何がほんとうに文学の未来に資するのか、いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。

致命的な点は、「いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。」と言う点。確実に間違っている。


「文学を民主主義的社会に対応させる」 とあるが、そんな薄っぺらい民主主義社会に私達は住んでいない。数ある国家形式を経て今の民主主義を形作ったのは。本書で取り上げられている、テクストを、本を、法を、読み、読み変え、書き、書き変えてきた、結果だ。現在に通じる近代法が産み出されたのは、6世紀に東ローマ帝国で編纂された『ローマ法大全』が11世紀末に発見され、それを徹底的に読み、そして書き換えられて12世紀における教会法や近代国家(および官僚制)の原型をもたらした。
反復になるけど、それが「中世解釈者革命」と呼ばれるもので、この本のキモの部分だ。

民主主義が最初からあったわけでなく、法を、身体を、テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変えてきた文学による革命の成果として今の民主主義がある。
原理的に結果が満足いくものでないなら、また書き換え修正する事も可能だ。
大袈裟に言えば、日本で起こっている憲法改正論も間違えば革命が起こりかねないと言う事だ。望んでいる人は少ないだろうけど、基本的人権を書き換えるとか、表現の自由を書き換えるとか、この点を踏まえれば12世紀に起こった文学よる書き換えの、革命の余波は現在も進行している。



そして彼がいう「文学を民主主義的社会に対応させる」 その文学は恐ろしくつまらないものだろう、それは、空気に縛られたもの、予定調和、多数決、最大公約数、マーケティングに基づいたなんたらかんたら、そんなものが、ほんとうに文学の未来に資するのか?そんなものは、情報と同じようにいくらでも発信され消費されている。面白くないし、未来ですらない。オリコンチャートと情報番組で事足りる。いまさら「何がほんとうに文学の未来に資するのか」と喧伝する必要はない。何度も言う、それは、すでに達成されている。


イスラム国のメンバーが図書館の本を焼いていると言うニュースを見た。
残虐性が取り沙汰される彼らも、読み、読み変え、書き、書き変えてしまう事が出来る本の怖さを知っている。本を焼くとはその証だろう。
(イスラム国は図書館の本を焼いた【焚書】)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/31/islamic-state-burn-library_n_6584260.html

支配者や政府などが特定の文学、思想、学問、宗教等を排斥し遺棄する事を、焚書というらしいね。
古くは紀元前213年、始皇帝の時代に焚書坑儒という弾圧が起こったみたいだ。「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする意味)
イスラム国は、本を隠す行為に対して、死罪という罰則を設けた。
過去に発禁処分にあった文学など腐る程ある。

民主主義国家でない国は、存在する。おそらくそれらの国では、読み、読み変え、書き、書き変えることを恐ろしく禁じているんじゃないか。なぜか?書き換えらることが可能ならば革命もまた可能だから。

文学は時として民主主義的社会すらも破壊させてしまうような恐ろしい毒がある。
その毒が怖いあまり対峙しない姿勢に評論家としての資質を疑うし、毒を見ないことは毒に犯された時に気がつかないいうことで危険だ、戦前の翼賛体制、原子力安全神話、過激派、テロリズムの台頭。危険な毒は至る所にある。この事は、吉本隆明が「文学者の戦争責任」と書いた時の文学と共鳴するのかも知れない。(読んだことないけど)


長年無毒化された文学を扱ってきて感じなくなっているのかもしれないし、好意的に言えば毒に犯され続けた結果、麻痺し免疫がついているのかも知れない。

文学の未来を憂いてみせつつ、無毒化された文学を慣れた手つきで情報のように流通させる。無毒化された文学と言ったが文学である限り、何かしらの影響はある。その無毒化された文学が蔓延した結果に管理社会、グローバリズムを覆う閉塞感、ニヒリズムがあるのかも知れない。無毒化されているから情報に流通、浸透させる事などたやすいはずだ。現在の日本の災厄と強引に重ねるのなら、放射性物質による内部被曝のように、匂いもなく、姿、影も形もなく、「それは、」ゆっくりと、人知れず確実にDNAを破壊していく。


ウンザリ。この手の言説には飽き飽きしている、人からモノを作る勇気を挫くし、その界隈では人を馬鹿にしたニヒリズムの臭気が立ちこめている。


 ニヒリズム批判の話ですから、ニーチェを引きましょう。彼はこういう意味のことを言っています。いつかこの世に変革を起こす人間が現れるだろう。その者 にも迷いの夜があろう。迷い苦しみつつ、ふと手にとって開く本があるかもしれない。そのたった一行から、ほんの僅かな助けで変革は可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行を編纂するために我々文献学者は存在しているのだ。その極小の可能性、しかし絶対にゼロにはならない可能性に賭けること、これが我ら文献学者の誇りであり、闘いである、と。
 こうしてニヒリズムに抗することは、現在においても可能です。これは「現在を追いかける」ことに汲々としていると見えなくなります。ウィトゲンシュタイ ンが言うように「現在を追いかける者はいつか現在に追いつかれる」。話が一巡りして最初に戻りますが、現在はこうなっているからこうしなければ乗り遅れる とか、こんな時代になってしまったから諦めてこうするしかないなどという抑圧的な言説は、惨めな恐怖と怯えと卑屈の産物でしかない。その一夜の一行を信じ ることができない惰弱さの産物でしかない。ですからわれわれはこう言いましょう、「そんなことは知ったことではない!」
(『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号)

そして、これを書き終える前後に、500ページを超える大著「夜戦と永遠」も読み終えた。
ネクスト」を一歩踏み出すためのマップではなく、コンパスを手に入れた気分で心強い。それは、あまりに毒々しく、指針は、信じるか、信じないか、の類のものだ、揺れ動いている。骰子一擲、あなたはどちらに賭ける?