日々淡々

次のアルバムに向け数曲出来てきました。サウンドクラウドにアップ中です。

使えそうな曲は、熟成させつつミックスやアレンジを直したりしてアルバムに使えれば良いなと。

日々淡々。
相変わらず手探り状態が続いてるけど、最近エディットの音源と合わせるとペースが早すぎたのでアイディアをゆっくり練りたいところ。

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/fix 

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/political-dance-techno

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/warm-form

出来たてだと曲に対して盲点になってしまいがちだけど、良いのができた気がする、あと変化や音圧の面を改良出来そうだから、その辺を時間をおいて見極めたい。

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』

2010年に発売された本で2回目を読んでる。
何度も読める本は良い本だ、新たな発見もある。

この本は、まだ産まれていない「何かを」作る人たちに向けられた本。

革命と呼ばれる大きな物語を軸に、「続きの始まりの終わりをまた続ける」ために書かれた本。

この本で語られる「文学」とは広い意味がある。
それは、人間が産み出し行動しうる、所作、思考、イメージ、藝術に関わることや、法解釈、信仰解釈など、広範囲に及ぶ。


そもそも「文学」とは「聖典を読み、かつ書く技術」のことです。いまリテラシーという言葉が流布していて、それは一般的に読みかつ書く技術のことを意味すると言われている。しかしもともと「文学」こそがそういう意味だったのです。だから完全に重複している。どころか、リテラシーという用語からは 「聖典を読み書く技術」という意味に含まれる絶対的な政治性・規範性がぬぐい去られてしまっています。初期キリスト教旧約聖書新約聖書の文献学的な取 扱いやそのテクストたちは何と呼ばれているか? キリスト教「文学」と呼ばれています。まさに聖典を、絶対的に政治的で、詩的で、芸術的な作法のもとに読み、かつ書く技術。これを称して「文学」というわけです。
(『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号)
http://www.k-hosaka.com/henshu/yasen.html


「文学」は本を、読み、読み変え、書き、書き変える。そのことに留まらず、見たり聴いたりしたものを読み変え、書き変えることも含み、文学による教育、躾として、あるいは共同体を維持するため経済的な人間の行動の読み変え、書き変えることも含む。
それは、人間が意識的に又は無意識的に普段あたりまえにやっている事、その延長線上に「文学」による革命が示される。ルジャンドルの「テクストは文章であることを必要としない」という言葉を引き、藝術家が表現することや、労働者が労働すること、アフリカの色とりどりに飾られた黒人のダンスもテクスト、文学とも言い得る。



 テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変え、――そしておそらくは語り、歌い、踊ること。これが革命の根源であるとすれば、どういうことになるか。どうしてもこうなります――文学こそが革命の根源である、と。
佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』河出書房新社,2010年,p.80)

革命と言うと、どこか暴力的で現実から遊離したものを想像してしまうが、作者は暴力の革命を否定する。

 念を押しておきます。暴力革命は革命の数あるヴァージョンの一つにすぎません。書き歌い踊り描く、本来は紛うことなく政治的であり芸術的でもあるさまざ まな技芸の果実――これを総称してルジャンドルは「テクスト」と呼ぶわけですが――によって、太古から人は自らを統治してきたのです。ところが、解釈者革 命以来、この「テクスト」の意味合いが縮減されていき、「情報」とその運搬機としての「書類」や「データベース」だけが規範や政治にかかわるのだという、 実は歴史的地理的に限定されたものにすぎない観念が出現します。その観念は植民地主義によって世界に輸出された。それから規範や政治は「情報化」されてし まった。だからこそ、逆にそれへの抵抗もさまざまな可能性を縮減されて、単なる「暴力」の噴出でしかなくなったわけです。こうして情報と暴力の二項対立に われわれは閉じ込められることになった。革命といえば暴力革命しか意味しなくなったのは、こうした「統治の情報化」の作用にすぎません。むろん、統治にお ける「テクスト」の政治的革命に、まったく力の発露がないとは言えませんよ。時には暴力的な何かがそこに含まれることは明らかでしょう。しかし、暴力革命 が「すべて」だというのは、歴史的に見ても完全に視野狭窄です。暴力こそがラディカル? それは「すべては情報だ」と言うことが新しくラディカルだと思い 込むくらいに、うんざりするほど退屈なことなのです。
(『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号)



情報が世界を席巻したかに見える現代、一つの情報がリレーのように伝えることを強要する。
夥しい情報を浴び相対化された結果、産み落とされた閉塞感、ニヒリズム
システム化、アーキテクチャーを介して行われる、管理社会、グローバリズム

それは、果たして今に始まったことなのだろうか?それに抗する術はあるのか?


以下、精神分析斎藤環氏の書評。この本の良い道標になります。

前作にひきつづき、本書の中核に据えられるのは、ドグマ人類学を提唱するピエール・ルジャンドルの理論、そのなかでも中心的な位置を占める概念の一つ「中世解釈者革命」だ。
それは簡単に言えば、6世紀に東ローマ帝国で編纂(へんさん)された『ローマ法大全』全50巻が11世紀末に発見され、それが精密に書き換えられて12世紀における教会法の成立に至る過程を指す。かくして教会が成立し、それは近代国家(および官僚制)の原型をもたらした。
 このときローマ法は翻訳され解釈され索引を付けられ、徹底的に「情報化」された。情報化された統治システムは異物としての「暴力」を括(くく)り出す。そして「情報」か「暴力」かという二者択一の残余として「主権」がもたらされた。つまりこの時点で、近代世界は「初期設定」されたのだ。これを「革命」と呼ばずして何と呼ぶか。
 「すべてが情報である」という「古くさ」い発想もここに由来する。それゆえか「革命」に対する著者の態度は両義的だ。それはしばしば暴力革命として、夥(おびただ)しい惨事をもたらした。しかし、と彼は続ける。読むことと書くこと、それ自体が革命であるということを知らしめたのも、この「革命」ではなかったか。だから彼はくり返す。革命は文学からしか起こらない、と。
 かくして偉大な「文学」の担い手として召喚されるのは、マルティン・ルターでありムハンマドであり、ニーチェでありドストエフスキーだ。そのかたわらにフロイト、そしてラカンの名がそえられる。文学の肯定が精神分析とともになされることはまったく正しい。情報ならぬ隠喩(いんゆ)と無意識のつづれ織りこそが、文学でありテクストなのだから。
いまや著者が批判する「マネージメント原理主義」、私の言葉で言えば「情報幻想」が覆い尽くしたこの世界では、「歴史の終わり」が、「文学の終わり」が語られる。そんな末人(ニーチェ)気取りの人々に、「情報それ自体が堕落なのだ」(ドゥルーズ)という叫びはどこまで届くだろうか。いや、そんなことは知ったことではない。少なくとも「何も終わらない。何も」という著者の言葉が信じられる限り、まだ希望はあるのだから。
(「すべてが情報」疑う 躍動する文体の挑発 。斎藤環)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071704452.html



〜は終わったと言う言説を疑う事、まだ体験もしていないのに勝手に終わらしてくれるなと。

現実に溢れて情報に縋った、現状追認するだけの、言説、思想には、飽きた。
TVや新聞の解説に毛が生えた程度の言説、思想を売りさばく、知識人、専門家、企業。

面白くないね、その程度なら、ウィキペディアで検索して自分で考えるよ。
社会問題や世界情勢、情報をかき集めてみたものの現状追認するだけだ。
(今まで散々やってきて理解したよ。)

例えばの話、お互い戦争している国があって情報を集め合うことは大事なことだろう、しかし、いくら情報を集めたところで、お互いが戦争している事は変わらない。和平に向かうには、読み、読み変え、書き、書き変えられたものを、何度も作り直して、お互いが同意しなければならない。戦争を起こさない為にも情報は必要と言う声も聞こえてくるが、その戦争、争いは、もう至る所で始まっているのではないか?
何かの終わりでも始まりでもなく、未だ現在進行形の何かの最中と考えることで「文学」に内在している物語を快復させる事は可能だ。



「すべて」が情報である、だなんて、もう八〇〇年も延々やっているわけですね。それがみんな新しいと思っているわけでしょう。滑稽です。もうデータベースなんてうんざりなんですよ。そんなもの面白くも何ともない。八〇〇年前の革命に縋りつづけようだなんて、一体反動なのはどちらなのか。ここから何も変化はなく、ここから脱出する術はない、と。そんなことは無い。ありえない。創り出したのが人間なら、われわれ人間はそこから抜け出すことだって出来るはずだ。必ず、必ずね。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』p159)

この本を読んで、今まで「すべて」が情報である、と言う言説に、どれほど妄信的、盲目になっていたのか気付かされた。大切な事は、情報自体でなく、それが指し示すものが、先行して存在している事。さらに言えば、存在していないのであれば、読み変え、書き変える事によって、新たに創り出すことが可能と言うこと。
今までもそうしてきたし、これからもそうして行くだろうと当たり前のことを当たり前として思えたことだ。

印象として情報は、損得の次元を出ない。興味のあることしか受け取らなし、受け付けない。「すべて」が情報である、と言い、その舌の根の乾かぬうちに情報端末にアクセスすることの滑稽さ。便利、快適、であるが、もう飽きた。それは、すでに達成されている。


そういえばヒドイ書評があったな、文芸批評家の福嶋亮大氏の書評。
「有名人」がたくさん召喚されているのだけど、頭の弱い私にはまったくわけがわからなかった。なにより、ちゃんと読んでいない。以下引用。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html


おそらく本書は、文壇には好意的に受け入れられるだろう。「文学の勝利」を高らかに謳い上げているのだから。そして、情報の世界に背を向けていいと言っているのだから。とはいえ、その「勝利宣言」は20世紀に積み重ねられてきたさまざまな文学的実験の背景を、ことごとく無視したところで述べられている。むろん、佐々木氏一人が「反動」に走るのは一向に構わないし、読者がその語り口に耽溺するのも自由だ。だが、作家や編集者、批評家は、何がほんとうに文学の未来に資するのか、いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。

致命的な点は、「いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。」と言う点。確実に間違っている。


「文学を民主主義的社会に対応させる」 とあるが、そんな薄っぺらい民主主義社会に私達は住んでいない。数ある国家形式を経て今の民主主義を形作ったのは。本書で取り上げられている、テクストを、本を、法を、読み、読み変え、書き、書き変えてきた、結果だ。現在に通じる近代法が産み出されたのは、6世紀に東ローマ帝国で編纂された『ローマ法大全』が11世紀末に発見され、それを徹底的に読み、そして書き換えられて12世紀における教会法や近代国家(および官僚制)の原型をもたらした。
反復になるけど、それが「中世解釈者革命」と呼ばれるもので、この本のキモの部分だ。

民主主義が最初からあったわけでなく、法を、身体を、テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変えてきた文学による革命の成果として今の民主主義がある。
原理的に結果が満足いくものでないなら、また書き換え修正する事も可能だ。
大袈裟に言えば、日本で起こっている憲法改正論も間違えば革命が起こりかねないと言う事だ。望んでいる人は少ないだろうけど、基本的人権を書き換えるとか、表現の自由を書き換えるとか、この点を踏まえれば12世紀に起こった文学よる書き換えの、革命の余波は現在も進行している。



そして彼がいう「文学を民主主義的社会に対応させる」 その文学は恐ろしくつまらないものだろう、それは、空気に縛られたもの、予定調和、多数決、最大公約数、マーケティングに基づいたなんたらかんたら、そんなものが、ほんとうに文学の未来に資するのか?そんなものは、情報と同じようにいくらでも発信され消費されている。面白くないし、未来ですらない。オリコンチャートと情報番組で事足りる。いまさら「何がほんとうに文学の未来に資するのか」と喧伝する必要はない。何度も言う、それは、すでに達成されている。


イスラム国のメンバーが図書館の本を焼いていると言うニュースを見た。
残虐性が取り沙汰される彼らも、読み、読み変え、書き、書き変えてしまう事が出来る本の怖さを知っている。本を焼くとはその証だろう。
(イスラム国は図書館の本を焼いた【焚書】)
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/31/islamic-state-burn-library_n_6584260.html

支配者や政府などが特定の文学、思想、学問、宗教等を排斥し遺棄する事を、焚書というらしいね。
古くは紀元前213年、始皇帝の時代に焚書坑儒という弾圧が起こったみたいだ。「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする意味)
イスラム国は、本を隠す行為に対して、死罪という罰則を設けた。
過去に発禁処分にあった文学など腐る程ある。

民主主義国家でない国は、存在する。おそらくそれらの国では、読み、読み変え、書き、書き変えることを恐ろしく禁じているんじゃないか。なぜか?書き換えらることが可能ならば革命もまた可能だから。

文学は時として民主主義的社会すらも破壊させてしまうような恐ろしい毒がある。
その毒が怖いあまり対峙しない姿勢に評論家としての資質を疑うし、毒を見ないことは毒に犯された時に気がつかないいうことで危険だ、戦前の翼賛体制、原子力安全神話、過激派、テロリズムの台頭。危険な毒は至る所にある。この事は、吉本隆明が「文学者の戦争責任」と書いた時の文学と共鳴するのかも知れない。(読んだことないけど)


長年無毒化された文学を扱ってきて感じなくなっているのかもしれないし、好意的に言えば毒に犯され続けた結果、麻痺し免疫がついているのかも知れない。

文学の未来を憂いてみせつつ、無毒化された文学を慣れた手つきで情報のように流通させる。無毒化された文学と言ったが文学である限り、何かしらの影響はある。その無毒化された文学が蔓延した結果に管理社会、グローバリズムを覆う閉塞感、ニヒリズムがあるのかも知れない。無毒化されているから情報に流通、浸透させる事などたやすいはずだ。現在の日本の災厄と強引に重ねるのなら、放射性物質による内部被曝のように、匂いもなく、姿、影も形もなく、「それは、」ゆっくりと、人知れず確実にDNAを破壊していく。


ウンザリ。この手の言説には飽き飽きしている、人からモノを作る勇気を挫くし、その界隈では人を馬鹿にしたニヒリズムの臭気が立ちこめている。


 ニヒリズム批判の話ですから、ニーチェを引きましょう。彼はこういう意味のことを言っています。いつかこの世に変革を起こす人間が現れるだろう。その者 にも迷いの夜があろう。迷い苦しみつつ、ふと手にとって開く本があるかもしれない。そのたった一行から、ほんの僅かな助けで変革は可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行を編纂するために我々文献学者は存在しているのだ。その極小の可能性、しかし絶対にゼロにはならない可能性に賭けること、これが我ら文献学者の誇りであり、闘いである、と。
 こうしてニヒリズムに抗することは、現在においても可能です。これは「現在を追いかける」ことに汲々としていると見えなくなります。ウィトゲンシュタイ ンが言うように「現在を追いかける者はいつか現在に追いつかれる」。話が一巡りして最初に戻りますが、現在はこうなっているからこうしなければ乗り遅れる とか、こんな時代になってしまったから諦めてこうするしかないなどという抑圧的な言説は、惨めな恐怖と怯えと卑屈の産物でしかない。その一夜の一行を信じ ることができない惰弱さの産物でしかない。ですからわれわれはこう言いましょう、「そんなことは知ったことではない!」
(『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号)

そして、これを書き終える前後に、500ページを超える大著「夜戦と永遠」も読み終えた。
ネクスト」を一歩踏み出すためのマップではなく、コンパスを手に入れた気分で心強い。それは、あまりに毒々しく、指針は、信じるか、信じないか、の類のものだ、揺れ動いている。骰子一擲、あなたはどちらに賭ける?

チルアウト。

チルアウト。

昔作っていた、ファイルを見ていたらダウンビート系で良いのが合ったのでアップしました、ブライアンイーノの曲をBPM遅くしてサンプリングした記憶があります。
テクノやダンスミュージックどっぷりな作業中だったので、ダウンビート系は新鮮でした。ドラムのワンループとかを直したりすればもっと音楽っぽくはなると思うけど、最初聴いたときの印象を大事にしたかったのと曲と曲とのインタールードみたいな意味を持たしたかったので、シンプルに仕上げました。

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/the-evening-star

夜の帳、宵の明星、明けの明星、夜の入り口、夜の出口、そんな感じのタイトル。
佐々木中の『夜戦と永遠』をやっと読み終えたのでその辺も影響しています。それにしても良い本でした、感想は今まとめているのでいずれ。

闘争でもなく、逃走でもなく。

闘争でもなく、逃走でもなく。


戦争、テロ、など。自分の生活とは無関係と思ってしまうが自分に関わっている事など。
今こうして何も出来ない、考えることへの問い。

戦争、テロなど個人ではどうする事も出来ない事柄をどうすればよいのか少なからず考えてしまう、それは現在の自分の認識の限界を超える行為、それは超越論的にならざるを得ない?
例えば、戦争を無くす、テロを無くすなどと考えること。

超越論の意味がイマイチわからなかったので、検索。

カントおよび新カント派の批判主義の立場。認識を事実の生起からではなく,それが可能となる権利、根拠から問題とする。

自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である。

カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。
 例:詰め碁や詰め将棋では、実戦でならば解けないような問題が解ける。それは詰むということがわかっているからだ。サイバネティックス創始者ウィーナーは、自ら参加したマンハッタン・プロジェクトで原爆を作ったあと、厳重な情報管理をしたという。それは原爆の作り方を秘密にすることではない。原爆を作ったということを秘密にすることだ。作れるということがわかれば、ドイツでも日本でもすぐにできてしまうからだ。いわば、原爆の作り方が構成的理念だとしたら、原爆を必ず作れるという考えが統整的理念である。
 ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。
(第一回 長池講義 講義録 2007/11/7 柄谷行人


私は、現時点で戦争やテロが起こっている事を知っている。(認識している)
そして実は、原理的に戦争やテロがなくなる方法も知っている。あらゆる国で出来るかどうかを別にして武器、戦力の放棄。限りなく不可能に近くても。(それは認識の限界を認識しているので超越論的)
ようは、超越論的に戦争、テロをなくなる方法を説明できる。
そう考えていくと不思議とあの超越論的に響く憲法が接近する。9条。


憲法9条
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

そもそも憲法とは何か、近代憲法(日本国憲法)の前提となる立憲主義という考え方に沿うなら、軍隊 警察 税務署 貨幣鋳造権という巨大な力を暴走させないために国民が国家権力に対してのある種の縛りを加えるもの。
歴史的背景を考えるなら当然と言えるが今回調べるまで全然知らなかった。


この国には幸か不幸か、もうすでに戦力、軍隊を放棄した憲法9条が書き込まれている事に驚く。
超越論的な理念がすでに憲法に書き込まれてしまっている。この経済規模、人口においてそれを、体現している国は、他に存在しない。歴史の不可思議と言うか、アメリカが書き込んだものに、アメリカが徐々に修正を求めている。というより日本政府自ら憲法の足枷を外そうとしている。

(日本国憲法は、日本人が書いたものではなく、アメリカが書いたものだ、押し付けられたと言うが、日本国民にとってこの憲法以上若しくは同等のものは、日本人には書けなかった、それは、天皇制の議論などをみれば歴史が証明していると思う。さらに言えば70年を経て書き換えようとしている、自民党憲法改正草案を見れば一目瞭然)


この憲法が書き込まれた背景には、第二次世界大戦における連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数の 5000万〜8000万人の屍と共に、連合国、日本双方に戦争は、もうやめようと深く思う意思が感じ取れる。世界が疲弊していた、平和を求めていた。敗戦国であるこの国で不可能に近いが決して不可能とも言えない世界的な理念が書き込まれた。


この憲法は逆説的に、人間の残虐性の表れと読む事も出来るのではないか。
永久にこれを放棄する。ここまで言わせるほどの人類の残虐性の残滓。アウシュビッツヒロシマナガサキ、この憲法の理念が書き込まれるに当たって歴史上どれほどの血が流れたか?戦争の残虐性を目の当たりにしてきた人類の、叫びにも近い願い。

反対に限定的な平和を享受している私たちにとって、寒々しいほど空虚に響く憲法とも言えなくもない。どこか大人が子供に仲良くしなさい、暴力はいけません。と上から目線で諭しているかのようだ、日常的に暴力があることは確かだ、しかしその諭しは間違っていたのだろうか。それは圧倒的な正論で、戦勝国アメリカが、 上から目線で圧倒的な正論を子供を諭すように悠々とかきこんでしまった、敗戦国日本に対して。それは、数々の争いを経て産まれた、国連憲章の平和主義を徹底した形で人類に共有できるであろう理念だったはず。

政府の唱える積極的平和主義という考えは、この理念の逆を行くこと、今の憲法では内閣がどんな憲法解釈をしようとも、集団的自衛権の行使は違憲。だから憲法改正を政府が謳い上げることになる。


70年間この憲法で育ってきてしまった、理想や理念の徹底こそいま、そして未来に求められているのではないか?綺麗事言うなとか、偽善的すぎるとか、虫が良すぎるとかなどの反論もあるが、歴史上人類が侵してきた残虐性の前で彼らは発言していない、普通に考えれば戦争の放棄を明記した9条などありえない、しかしそのありえないものを憲法に書かざる得ないほどの悲劇を人類は体験した、そう考える要素は少なからずあったはずだ、それ改正ならざる改悪する事は、戦争で死んで行った人々や人類の叡智としての憲法を無にするに等しいのではないか。


人類の残虐性ばかりフォーカスして行けば、人は正気を失う。帰還兵のPTSDの問題、アフガニスタンイラクから帰還してきた自衛隊員の自殺者の多さなどに、過酷な戦地での状況が伺える。
日常的に空爆、戦闘などが行われる地域でテロリストが多く産まれる背景にもこの残虐性があるように思う。


この憲法が孕んでいる人類の残虐性の前でエゴイズムに溺れることは果たして綺麗なことなのか?


時代と共に憲法が古くなっているのも確かだ、憲法改正は良いが改悪が許されるものではない。どちらにせよ最後は国民投票で決まる。自分としては、国民投票して自分たちの憲法を自ら選んだという経験は必要な気がする。が自民党憲法草案みて笑ったよ、酷すぎる。前文だけ読んだけど端的に言ってダサすぎる。この草案をドヤ顔で出した感性驚く、、、誰か止めなかったのか。

この草案ができるまで、そして日本国憲法が制定されて70年間もあった筈、現行憲法下で戦後の困難を乗り越え名も知れず経済発展を支えたを人々がいた筈、ノーベル受賞者を多数輩出してきた筈、音楽、文学、映画、藝術の分野で世界的に活躍している人を多数輩出してきた筈、表現の自由の下数々の表現を贈与し社会を豊かにしてきた筈、70年もあった、70年、その結果がこの草案に織り込まれていると思うと怖くなる。
これは善悪を超えている多少のリテラシーがあればどちらの憲法の理念が優れているかわかる筈、今後のため前文だけでも読んでいた方が良い。
https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

今回悲惨なテロが発端で戦争の事など色々考えてみて、最終的に9条に行き着いた、戦争の事を考えるのは憂鬱だ、どうしたって戦争すれば不条理な事が起こる。その不条理さを考えることは気分の良いものじゃないけど、その感情を先回りするように憲法の前文に以下のように書き込まれていた。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

憲法の全文の意味など今まで考えたこと無かったが、その言葉に不思議と出会い、救われ、その理念の理解が深まった。
こうやって考えるのが今のところ一番しっくりくるし、多少の静謐の感をもたらしてくれる。


偽善だと言い。すべては決まっているのだから、どーにもならんと露悪的に振る舞い、政治からは顔をそむけるふりをしながら『彼ら』が演じてしまう悪質の政治的役割をするよりマシだ。

たんにそれらを、否定するだけでは何にもならない。結果的に、それらの現実性を承認するほかなくなり、そのあげく、それを越えようとする理念をシニカルに嘲笑するにいたるだけである。それがポストモダニズムにほかならない。柄谷行人「世界史の構造」

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰憂国呆談』)


何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中ツイート)



戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)

エディット集

エディット集

風邪引いて口内炎がなかなか治らなく、新年早々あまりステキと呼べる日々を送れていないですが。
フレッシュな感覚を取り戻そうとリハビリ代わりに、最近のハマってるソウルやジャズのエディット作り。
原曲にドラムやベースを入れて、DJミックスの延長のようなノリで作ってます。 

自分の好きな曲を蘇らせる作業の戯れが楽しい。
   

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/we-gettin-down-weldon-irvine

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/st-thomas-sonny-rollins-common

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/lets-make-peace-and-stop-the

https://soundcloud.com/sekine-tsuyoshi/roy-ayers-hip-mix

曲数が溜まったらミックステープ的な感じでミックスしたいかな。

ループ、マシンビート、ディープリスニング

偶然性の音楽は、それはそれで良いけど。作品として形を整える段階になると、偶然生まれたものだから、手を加える事が難しい。プロセスが不在というか?一過性で瞬間の閃きで生まれた音楽だから、展開が難しい。今までの制作は、偶然生まれる音をただ待つだけの場合が多かった、受動的というか、

いま意識的にやってるワンループをずっと聴いて、音が頭の中で細部までイメージできるまで聴きこみながら制作していく方法はいいアイディアだ、何がこの音楽にとって最善の音なのか考えながら、イメージしながら、無限と思われる音の組み合わせを一つ一つ確かめてみる、地味な作業だけど、音が頭の中で具現化出来て物のように感じられていれば退屈と感じない。それは、ピアニストが紙とペンだけで譜面に音符を書き入れるようなイメージに近いのかもしれない、紙とペンで音楽を作れる力。

コンピューター、マシンビート、機械が産み出す音楽であり、そこから生命が感じられる音楽、自然界に溢れる様々な周波数、マシンビートに自然らしさ、自分なりのうねりを持ち込む、
音楽を現象として、音楽を自然物のようにモノとしてあらわせるか、


一つ謎が解けた気がする、今まで自分の音楽がどうしても愛着が湧かなかった、自分が作った物とあまり思えなかった、理由は受動的そして偶然が産まれるのを待っていた制作のスタイルに原因がある気がする。音に対して少々受け身すぎた、制作者としてでなく観察者としての比重が多かった。

ここまで雄弁に語ったが、音として立ち現れるか、
疑問だが、とりあえずこれからだ。

年が明けたら考えていた事が何処かに行ってしまった。

前回チマチマ音楽制作の事書いていて、年が明けたら考えていた事が何処かに行ってしまった節がある。取り敢えずこの一年はダンスミュージックを作る予定。

料理と同じで音楽も手間ひまかければ良くなる、料理と違うところは、いくら食べても(聴いても)減らないということか?
(この話しで脱線すると大変なのでまた次回に。)

このループをずっと聴きたいと思える、そんな風に感じるまで先に進めないで、音の足し引を繰り返しながら作ってみる、シンプルだけど難しい。

私はすぐに飽きてしまうからね、即ちそれは、単純に良いビートじゃないとも言える、8小節のループなんてフツー飽きる当たり前だけど、生き残ってる音楽はやっぱり違う、1音1音妥協をせずにやって、それが組み合わされた時、素敵な音楽が生まれる。答えが分かってるのになかなか実践出来ない、音楽作るの好きじゃないと自分を疑いたくなる、それらの自問自答を乗り越えて。
今更だけど、そこから始めてみようと思った。そして、そこからしか始まらないと思った、

理想は、どこを切り取って聴いても良いような金太郎飴的な音世界。

去年作っていたテクノ君たち良かったら聴いてください。
http://marginal-music.hatenablog.com/